FC2ブログ

北方領土を取り返すためには戦争でもしないと……

2019年05月18日 21:00

北方四島交流事業の「ビザなし交流」の訪問団に、一員として同行した《日本維新の会》所属の衆議院議員の丸山穂高が、国後島訪問中の5月11日夜、ムネオハウスで記者の取材を受けている最中の訪問団の団長・大塚小彌太氏に対して、北方四島の返還に関し、「戦争しないと、どうしようもなくないですか」と詰め寄るなどしたことで、元島民から謝罪を求められる事態になった件について、自分が思った諸々を書いてみる。


まず、気になったことは、朝日新聞の記者が録音したテープが公開されているが、その場所には、ロシア人・ロシアの政府の関係者とかはいたんだろうか?
もし、いなかったとしたら、酔っ払いのたわごとで片付けるべきで、なんで、メディアはこれを報道したんだろうな?
もし、その場でロシア人に聞かれていなかったら、黙殺するべきだったでしょう。
国会議員がこんな発言をしたことが国際社会で公になったら、今までの交流事業で重ねられてきた努力が無に帰する。

元号が改められて早々、こういう外交問題になるようなことが起こるなんて、これも《令和》っていう元号が招いてしまっているんだろうか?
「令」という時から、「冷える」というイメージを感じてしまうことを既に書いたが、「零」というイメージもあるよな。今まで積み重ねてきた信用度がゼロになってしまうということも連想させられる。


しかし、いずれにしろ、こういうことをやらかす人間って、将来にも出てくることはありうるんだろうな……という気もする。

1891年、日本を訪問していた帝政ロシアの皇太子(後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県の大津で暗殺されかける事件が起こったけれど、それの犯人は警備を担当した警察官だった。

幕末には、幕府の開国方針に従わないで、関門海峡を通過する外国船を砲撃したり、外国人を刀で斬ったりして、厄介な外交の火種を作った連中がいたわけだし……。
他でもなく、当初はそういう活動をしていた連中が維新とか唱えて、新しい国家体制を作ったわけだし。
だから、《維新》という言葉を党名に採用している政党に所属している議員がこういうことをやらかしたことについて、色々な意味で皮肉を感じたりもする。


維新の会は丸山穂高を除名処分し、他の五会派の野党と共同で、この議員の辞職勧告決議案を衆院に提出したが、おかしな雲行きになってきた。
それが議決されたとしても、丸山穂高を辞職させる法的強制力は無く、本人も任期を全うする意思を表明している。
そればかりか、それに賛成した政党の議員に対して、左右・与野党問わず、自分が握っている過去の不祥事のネタを掘り起こすというような報復をツイッターで予告している。
与党の自民党は表向き、丸山穂高の発言について、「発言が事実とすれば政府の立場とは全く異なるもの」「誰が聞いても不適切な発言。個人で責任を取るべきだ」と強く突き放した姿勢だが、辞職勧告決議に賛成するかどうかは微妙なところらしい。
一度、失言によって、議員が辞職する事例を作ると、“ブーメラン”になってしまうこと――つまり、今後は決議案が失言をした閣僚らに対する野党の追及材料になりかねないことを恐れていて、辞職勧告のハードルを下げることになりかねない決議に二の足を踏んでいるらしい。
でも、賛成しなければ、丸山氏の発言を容認しているだろと内外から良識を疑われるだろうし、安倍内閣は難しい判断を迫られている。

書いてて、こういうふうな想像も募ってきたのだが、丸山穂高は二つの意味で、鉄砲玉にされていることが考えられたりもする。

一つは、辞職勧告がどちらに転んでも、自民党に痛手を与えられそうだから、もしかすると、それと対立する・敵視する勢力の差し金かもよ。

もう一つは、他にも似たようなことを指摘している者がいるが、自民党というか、改憲勢力の方も差し金だという見方だ。

ツイッターやYouTubeなどを観ていると、丸山氏の発言に賛同したり、発言の意図を好意的に解釈するような書き込みも散見される。

話が少し逸れるけれど、経済界の人間が何人か、「終身雇用の維持はもう続けられない」という発言が最近、話題になっている。
以下のリンク先で、それに批判的な弁護士の解説が掲載されているが、その一連の発言は、国民の反応を見るための観測気球のように思えると述べられている。

「経済界は解雇規制をなくしたいだけ」 相次ぐ「終身雇用は限界」発言に労働弁護士が批判

おそらく、彼らがいう「終身雇用」は、私たちがなんとなく思い浮かべる意味ではなく、現行法制における解雇に対する規制のことを言っているのだろうと思います。つまり、経団連会長も、トヨタ社長も「もっと自由に解雇できる社会がいい」と言っているだけです。

経済界の相次ぐこうした発言は、労働契約法や整理解雇法理で、経営者が労働者を思うように解雇できない法制度を「変えてしまえ」という狼煙(のろし)であり、国民がどんな反応をするのか見てみようという観測気球のようなものと思えます。


丸山穂高の発言もそれと同じこと――現行の憲法第九条とかの改正の是非について、国民の反応を確かめるための観測気球になっているかも知れないなとも思った。
案外、改憲を推進したい安倍内閣側によって、そのために放たれた鉄砲玉なのかも分からないよ。

不登校YouTuberの少年(の父親)が、ボロクソに叩かれる理由についての個人的考察

2019年05月16日 06:00

沖縄県宜野湾市に在住の10歳の“不登校YouTuber”の“ゆたぼん”少年(とその父親)が、ネットでボロクソに叩かれている。

最初に俺個人の考えを述べると、親が家で勉強させるとか、社会で生きていく能力を何か身に着けてさせていくことさえ怠らなければ、別に学校に行かないっていう選択も別に有りなんじゃねーかと思っている。

でも、世の中の大衆の多くは、そういうふうには大らかじゃないみたいなんだよな……。どうしてこんなにボロクソに叩かれているのか?
今回の記事では、個人的な考察を披露していく。

少年の家族は以前、大阪で暮らしていたそうな。そこで、少年は小3の時、宿題を強制する学校に疑問を持つようになり、当時の担任教師とトラブルになった。宿題をやらなかったら、教師は体罰で居残りしてやるように強いてきた。教師の言いなりになっている同級生がロボットのように見えて、自分もそうなってしまうことに嫌悪感が募ってきた。
それ以来、不登校しがちになりながら、何を学びたいかを自分で考えるようになり、歌やお笑いなどのエンターテイナー系のYouTuber活動をしたり、いじめや不登校に悩む子やその親からの相談に乗ったりするようになったそうだ。
不登校YouTuberだなんて呼ばれているが、全く学校に行っていないわけではなく、沖縄に移住してきた今は行きたい時は登校しているらしい。だから、本人は“自由登校”だと主張している。
将来の夢は、子どもだけが乗れるピースボートで世界中を旅して、友達を作っていき、戦争を無くすことなんだって。

ネット民の否定的な意見を集約すると、

「いじめで登校できなくなったこととは違って、宿題をやりたくないだなんていうわがままな理由で不登校するなんて、けしからん!」
「こいつのせいで、いじめなどのやむをえない事情で学校に行かれなくなった子が同じような怠け者に見られるようになることが許せない!」

などといったところだろうか。

あと、心理カウンセラーをやっているという父親のことを胡散臭く感じている人も多いみたいだ。中卒で十代の頃は暴走族をやっていたD’QUNで、今はネットを使った胡散臭い情報ビジネスやカウンセル業で小銭稼ぎをしていて、自分の子供もそれに利用している。
少年をロボットにしているのは、学校じゃなくて、このチンピラみたいな親父だろなどという批判もある。学校に――義務教育から高校までは、ちゃんと通わせようとしないことで、自分の子供の将来の可能性を閉ざしてしまう悪い親だ、と。

冒頭でも書いたこと繰り返すと、俺個人は家で勉強させるとか、社会で生きていく能力を何か身に着けてさせていくことさえ怠らなければ、別に学校なんか行かなくていいんじゃない……っていう考えだ。
ただ、この父親、そこまで責任感があるかどうかは分からないし、実際、無さそうに見える人が多いから、叩かれているところもあるのかなという気もするけれど。

ネット民は否定的な者が多いが、野球選手のダルビッシュ有、脳科学者の茂木健一郎、ライブドアの元社長の堀江貴文などは応援のメッセージを発している。
特に堀江は、今の公教育を完全に否定するような発言をしている。「スマフォやタブレットがある今、学校に通わされるのは刑務所に通わされているようなもんだよ」などと言い切っている。

俺みたいに非正規雇用の仕事を転々としてきただけの薄っぺらい人生の中年男が、「刑務所みたい」などという形容で何かを喩えても、誰からもまともに耳を貸してもらえないと思うが、本当に服役したことがある人物がそこまで断言するくらいだから、今の公教育の現場には、問題があるんだと思う。

もし、自分が子供の頃、自分の両親がゆたぼんの親みたいな方針だったら、嫌いな物が献立に入っている給食の時間とか、嫌い・苦手な教科(体育とか)の時間、朝、持久走をさせられる時間なんかは、それを避けるように遅刻・早退したかったよ(笑)。
それに加えて、運動会とか合唱コンクールみたいな行事の前は、完全にボイコットしていただろう。それらの行事の練習で教師に怒鳴られながら、行進やダンスをさせられたり、歌を歌わされるのが苦痛だったからだ。
給食や苦手な教科が嫌だから休むのはわがままだと言われてもしょうがないが、少なくとも、行事の練習で怒鳴れたりするところは、堀江の言う刑務所という形容が合っているような気がする。

いずれにしろ、この炎上騒動によって、色々な立場の人がSNSとかで意見を発信していて、なんか、「現在の公教育の存在意義は何だ?」とか、「どうして、学校へ行かなきゃいけないの?」みたいな哲学的命題にも議論が及んでいる感があるよな。

戦後の憲法で、国民の三代義務の一つとして、「教育を受けさせる義務」が定められている。その源流は、明治期に成立した学制に端を発しているんだろうけれど、そもそもの公教育の目的は何だ?
それ、端的に言ってしまうと、企業などの組織の歯車になって働かせることができる人間を作るためだろ。終戦までだったら、それに加えて、徴兵されて軍隊に入ったら、上官の命令に従って、訓練をちゃんと受けられる人間にするためだ。
企業や軍隊で職制や将校の指揮通りに作業(戦闘)するためのロボットを作るような場所なんだよな。学校って。

大雑把に言うと、昭和の高度成長期ぐらいから令和にかけて、ほぼ一貫しているのは、小中の義務教育を経て、高校へ進学して、できれば、大学にも進学して、会社や官庁に就職するというレールの上を走るトロッコに乗った人生が一般的だ。リスクを抑えて、安定した人生・生活が送れる道ということになっていて、自ら望んで、そこから逸れようとすると、周囲の親しい人からは静止されるし、他人からは冷たい・奇異の目で見られる風潮がある。

ところが、ここ最近、経団連の会長の中西宏明氏とか、トヨタ自動車の豊田社長なんかが、「もう、今後、日本の産業界は終身雇用を維持していくのは難しい」という趣旨の発言をしていることが報じられているではないか。
実際、富士通とか、東芝とか、NECとか、博報堂とか、三越伊勢丹といった大手企業は、45歳以上とか、50代の中高年社員を対象にしたリストラを推進している。

今、それぐらいの年齢層の人々って、1990年前後に新卒で入社してきた世代だろ。
その頃って、末期の方はもう、就職氷河期世代になるけれど、安定した大企業に入れば、一生安泰であることを疑う雰囲気は無かった世の中だたっと思う。
それ前提に人生設計を立てて、子供の教育費や住宅ローンなどのフィナンシャルプランニングを立ててきて、40代半ばから50代前半ぐらいって、28~32歳ぐらいで子供を産んでいれば、最も銭が掛かる時期なのに、「君たちは生産性が低いから辞めてくれ」だなんて言われることは、梯子を下ろされるようなもんだろ。

厳しい受験戦争を勝ち抜いて、大学に入って、就職後は散々、残業をやらされてきた(給料を増やすために、必要以上にダラダラ居残りした人もいるか?)。敷かれたレールの上を逸れずに走ることに必死になって生きてきた人々だ。

そういう人々にとっては、例えば、与沢翼なんかが代表例だけれど、十代の頃、暴走族をやっていたりして、好き放題に過ごしてきた元不良が濡れ手で粟をつかむような大成功を収めたり、そこまで金銭的な大成功じゃなくても、若い頃、ヤンチャしていました系のプロフィールを晒している奴がそこそこの社会的地位を手に入れていたりしたら、面白くはないだろ。
東大を一カ月で中退して、会社も潰したけれど、それでも一生、好きなことして暮らせる資産を持っている堀江貴文だって、同様の悪心象を持たれ易いと思う。

行きたくない日は学校に登校しないで、YouTuber活動とかをやっている子どもと、中卒で元暴走族の心理カウンセラーの父親だって同様だろうよ。

敷かれたレールの上から逸れずに、受験と就職を突破して、20~30年も社畜を続けてきたのに、45~50歳ぐらいで会社から辞めてくれって言われるような状況に直面している階層の人々にとって、若い頃、学歴社会のレールから逸脱しながら、自分たちよりも楽しそうな暮らしをしている人間って、ムカつくもんなんじゃないかな?

この不登校少年YouTuber叩きの背景には、そういう今の社会のパラドックスや歪んだ妬みも見え隠れしている気がする。

いじめを苦にした自殺とかを無くすには、子どもが教育を受ける場を友達がいなくても居辛くならない環境にすることだと思う――(教育改革試案)

2019年05月15日 23:00

(今回の記事は、2016年7月11日に本家のブログで書いた記事を一部改稿して、再掲したものです)

2016年5月、東京都の台東区で、高校一年生の少女(15歳)が自宅のマンションで母親を殺害した容疑で、送検されるという事件があった。

母親が所謂、“毒親”で、その少女は虐待を受け続けてきたらしいことが近所の住人の話などから窺えるので、ネットの掲示板などでも少女に同情的な声が少なくない。

少女は犯行の時点(今年2月)で、中学を卒業する前だったらしいが、自分の携帯電話のことで母親と揉めていたらしい。
母親が少女に与えていた電話機は、家族など限られた相手としか連絡が取れない“キッズ携帯”だったそうな。
それで、学校の友達ともやりとりができる携帯が欲しくなって、母親と衝突したんだろうけれど、それまでに虐待されて積もっていた不満とかが爆発して、最悪の結末になってしまったわけだ。

今時の中高生の多くは、スマフォにLINEをインストールして、それで友達とやり取りしているんだろ。クラスの中で、自分だけその輪に加われないのって、しんどいよな。
上述してきた事件を起こした少女は、そういうことで精神的に追い詰められてしまったんだろうな。


インターネットって、子どもが閲覧することは好ましくない内容の物があちこちに転がっているし、危険なこともあるから、未成年者がパソコンやモバイル機器を使用することには多少の制限が必要だというような意見もあるだろうし、そういう方針の家庭もあるだろう。
それが厳格になれば、この母親のように、子どもが高校に進学するような年頃になっても、キッズ携帯しか認めないような家庭が他にもあるんだろうか。

そういう方針の子育てをする家族があってもしょうがないとは思うけれど、だったら、自分の子どもは、同じような方針の家庭の子どもばかりが集まってくるような私立の学校とか、校則でスマフォが禁止されているような学校にでも通わせてやればいいのに……とも思ったりするよ。

スマフォを持たせてもらうことができても、LINEのやりとりは既読機能のせいで、同級生とかとの人間関係が大変になっている。
マメに返信しなければ、すぐに不機嫌になる奴もいて、そいつが学級内・グループ内で権力を持っていたりしたら、いじめの対象にされてしまったりするんだろ。

上述の事件で、加害者の少女が送検されたのは5月9日だが、その翌日の新聞で、携帯電話のことで母親と口論になったことが明かされた。
確か、ちょうどその頃、子どもの自殺は五月の黄金週間とか、夏休みなどの連休が明けたばかりの頃に増える傾向があるらしいという統計結果が公表されたこともニュースになっていた。
いじめも含めて、学校での人間関係のトラブルで精神的に追い詰められて、自殺する子どもが多いことを裏付けられるだろうか。

いじめを苦にした自殺が発生する原因とか、それを解決・無くす方法とかについて、昔から議論されてきているけれど、俺は現在の殆どの日本人が認識している概念での“学校”という教育機関のシステムを解体しない限り、いじめは無くならないんじゃないと思っている。

どーいうことかというと、友達を作れない児童・生徒は、教室に居場所が無くなるような雰囲気が出来易い環境がいけないんだと思う。

できなければ死んだも同じ-?中高生のインフラ「LINE」の実態

中学2年女子のB美は成績が急降下し、保護者が学校に呼び出される羽目になった。驚いた両親が問いただしたところ、勉強していると思っていたB美は夜中(よるじゅう)LINEを使っていた。布団に入ってからも延々とLINEを利用し、寝るのは連日午前2時過ぎ。睡眠不足で授業中に寝てしまったり、保健室に行ったこともあるという。

保護者が確認すると、授業中にもLINEのやりとりが行われていることが分かった。「みんな机の下でLINEしてる」と言うB美。その言葉通り、授業中にLINEのやりとりが行われていることが分かり、大問題となってしまった。

保護者はLINEを禁じてスマホを取り上げようとしているが、B美は狂ったように暴れて反対しているという。「クラスのグループがあるのに自分だけしなかったら居場所がなくなる。LINEができないなら死んだも同じ」


夜中1時までLINEをやっているという小学校6年生のC奈は、「毎日寝落ち。LINEの返事が遅くてD子にキレられたことがあり、すぐに返事をするようにしているので(端末が)手放せない。自分からはやめられない」と語る。彼女たちの間ではトークを読まずに放置する「未読放置」、トークを読んだのに返事をしない「既読スルー」ともにひどく嫌われており、した子は次の日学校で無視されたり、悪口を言われるという。ここでは、嫌われたり仲間はずれにされる不安がC奈を利用に駆り立てていることが分かる。

http://japan.cnet.com/sp/smartphone_native/35062704/

上の記事を引用したが、LINEなどのツールの有無は問題の本質ではなくて、子どもがクラスのグループに所属できなければ、学校に居辛くなるっていう構造がダメなのだ。

先に断っておくと、これは完全に自分の発想というわけではなく、余所のブログで既に同じようなことが書かれているのを読んだことがあって、それに概ね同意にする趣旨で書いきながら、自分の拙い考えも補足している。

まず、現在の“学校”を友達・仲間を作らなくても、居場所が残るような場所に変えない限り、いじめとか、それを苦にした子どもの自殺は無くすことは不可能だと思う。

具体的にどうするべきかというと、“学級”という概念で、児童・生徒を固定したグループに分けることを止めるべきなのだ。「クラス」と呼ばれているシステムを無くしてしまうのだ。
分かり易く書くと、児童・生徒一人一人が、現在の大学みたいに個人単位で自分が受けたい科目を選択して、個々の組んだスケジュールに従って、授業毎に教室を移動するような感じになるだろう。何年何組という学級の概念は無い。
いじめの殆どは、学級という小集団内で発生しているならば、現在の小中高の学校の教育システムをそういうふうに変えてしまえば、未然に防げるのではないか?

尤も、大学でも体育会系のサークルなんかに入ったら、いじめはありそうだし、アカハラを苦にした自殺者もいるし、もう、十年ぐらい前のことだけれど、“スーフリ事件”の被害者の女子の中には自殺した者がいたかも知れないよな。
それでも、小中高と比べたら、いじめによる殺人や、いじめを苦にした自殺なんて、それら以外ではあまり聞いたことがない。学生を学級という小集団で束縛するシステムが無いからに他ならないからだと思う。

きっとこういうことを書くと、「学校は集団生活の規律とかを学ばせる役割もあるんだから、そんなことはできない」というような否定的な意見が出てくるだろう。子どもに学校で社会性も学ばせなければ、将来、社会に出てから困ることになるかも知れないからだ。

一面では否定できないが、命の方を優先しなければならないに決まっているではないか。
今の日本の憲法で規定されている国民の三大義務の一つの「教育を受けさせる義務」の中に、学校でその社会性とやらを学ばせることは含まれているのだろうか?

もし、そうじゃなかったら、『のんのんびより』に登場する小中併設の分校(生徒は僅か5人しかいない)とか、
極端な話、山間部や離島などの過疎の地域で、児童・生徒数が一人しかいない学校は、その義務を果たせてないってことになってしまうよな?

少なくとも、義務教育には、以上の意見に否定的な考え方の人が唱える“社会性”とやらを学ばせることは含まれていないから、過疎の地域で、そういう学校が公に認められているわけだろう。

テレビで離島の児童数が一人しかいない学校をドキュメンタリーみたいなものも観たことがある。若い男性教師と小学生の女の子だけれど、体育の授業ということで、近くの砂浜へ海水浴へ行っているところも映されていた。

『のんのんびより』の漫画の内容とか、そういうドキュメンタリーを観ながら感じたことは、そういう過疎の地域の学校の先生って、教師というより、近所のお兄さん・お姉さんっていう感じだ。

児童・生徒を学級というグループに分けるようなことは止めるべきだというようなことを考えながら、そういう分校の実態を知ると、もっと人口密度の高い地域の公教育のシステムも、そういうふうに変えてしまった方がいいような気にさえなってしまう。

一定の条件を満たし、国家試験の合格者に教職の資格を取らせて、自分の私塾を開く許可を与える。
塾は公共施設を借りても良いだろうし、自分の居住する家の一室でもいいし、経済的にゆとりがあれば大きな建屋を造ってやってもいい。
地域の子ども(その保護者)は、その地域内の教職有資格者の中から、評判のいい先生、自分と相性の合いそうな先生の塾を選んで、既定の単位を取得するために、都合の合う時間に授業を受けに行く。

体育とか、集団生活を学ぶ場所は、ボースカウトのような団体とか、国や自治体が一定の条件を満たしていると認定したスポーツクラブとか、寺などの宗教団体に委託して、これも子どもとその保護者が、評判が良いところ、自分と相性が合いそうなところを選んで、既定の単位の取得を目標に通うような形にすればいいだろう。
部活で教職員がサービス残業を強いられているという問題も、それで解決だぜ。

勿論、座学の授業を受ける塾も、体育や集団生活を学ばされる場所も、途中で先生と相性が合わないと感じたり、何かトラブルがあったりしたら、簡単な手続きで他へ移れるようにする。
そうすれば、質の悪い教師・能力不足の教師は、子どもやその保護者からすぐに見限られるようになるから、競争原理が働いて、淘汰されると思うし。

まぁ、敢えて例えると、江戸時代までの薩摩にあった“郷中教育”のようなもの――地域の年長者が子どもの勉学の面倒を見るシステムを現在の社会の実情に合わせた内容で整備してみたらどーなんだっていう提案だな。

勿論、有資格者は自分の実子・弟や妹の教師になることもできる。米帝の発明王エジソンの母や坂本竜馬の姉のような教師も出てくるかもね。

教師の有資格者は自宅で私塾を開けるし、自身の家庭上・健康上の事情に合わせて、一日の内でどれだけ教鞭を取る時間を割くかも決められるようにする。
企業を定年退職した高齢者とか、司法試験の勉強をしている浪人とか、選挙で落選した政治家などにはうってつけのバイトになるだろうし、育児に一定の時間を割かなければならない女性とか、障害のある人間の在宅勤務の選択肢にもなるから、一億総括社会とやらの潮流にも叶っているだろ?

今、我々が認識している意味での“学校”なんて、無くしてしまうわけだ。もう、税金で校舎とかを建てたりする必要なんて無くなるから、国や自治体の財政も助かるかも知れない。

勿論、現在の私立の学校まで廃校にしろと言っているわけではない。自分の子供は飽く迄、“学校”へ通わせたいっていう親がいるなら、私立の学校にそれ相応の学費を払って通わせればいいのだ。

日本って、GDPや税収に対して、子ども(の教育・福祉)に投じる費用の額の割合が世界の主要国の中で低い方だって、随分前から内外で批判されているけれど、皆、子どもに税金を掛けたくないんだろ?


大体、ロボットを量産するみたいに、何百人も同じ学校に押し込めて、同じ給食を食わせて、同じ制服を着せて、個人個人の適性や能力はバラバラなのに、同じ進捗で授業をするやり方は、何でも大量生産すれば、どんどん儲かっていたような高度成長の時代には合っていたんだろうけれど、今後の成熟社会の時代に合ってないんじゃないないかと思ったりしてしまう。

今回の記事は、かなり拙い極論になってしまった感があるな。
数日前、niconicoニュースで、以下のリンク先の記事を見掛けたが、これに匹敵するトンデモ主張かも知れない(笑)

8歳の社畜アイドルが、もし総理大臣になったらやりたいこと 「安楽死の合法化」「義務教育をなくす」

でも、日本の政府・全国の自治体の財政が今後も悪化の一途を辿ることが濃厚なことを想像すると、俺がここまで書いてきたようなことをするしか、限られた予算で教育を改革する方法なんか無いんじゃないかなって気がしてならないんだよな。

“煽り運転・交通トラブル”の訴えの急増にウンザリしている警察の本音が窺える事例

2019年05月08日 09:00

連休中も交通事故・トラブルのニュースがちらほらあった。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190502-00010005-sp_ctv-soci

詳細はリンク先で確認してもらうが、こんな危険走行・行為をした奴でも逮捕されないのだ。
被害者が運転する自動車の前に、左側の車線から、いきなり車線変更して入ってきて、あまりに危険だから、警笛を鳴らしたら、相手は逆上して、再び左車線に戻った後、幅寄せしてきたり、ペットボトルを投げてきたり、急減速して、被害者に急ブレーキを強いることもしている。被害者の車両のすぐ後ろに後続車がいれば、追突事故が起こって、大惨事になっていたかも知れない。
これだけ危険行為を重ねていることがバッチリ録画されている物があるのに、「厳重注意」で済まされたことについて、池袋の例の悲惨な事故の加害者が逮捕されないことと同類の懐疑的なものを感じた人が多いだろう。もしかして、池袋の事故の元官僚の加害者と同様、何か忖度があるのか?



このニュースを見て思ったんですが、おそらく、警察はこういう訴えが持ち込まれることについて、面倒臭く思っているだけなんだろうな。
一昨年の東名道の例の事故以来、“あおり運転”が社会問題として大きく取り上げられるようになったが、ドライブビデオカメラの映像データを持参して、警察に被害を訴えに来る者が急増しているらしい。
警察はそういうことにウンザリしているところがあるんだろう。それで、「これだけの事例でも、逮捕まではできないから、何でもかんでも“煽られた”と言って、持ち込んでくるのは止めろ」というメッセージを発信しているんじゃないかと感じました。

今、新東名道と東北道の一部の区間で、今までは制限速度100km/hとしていたところを120km/hに引き上げる試行・検証をやっていて、そこまで緩和しても安全性は損なわれないことが認められつつあるが、それと同様に、各地の都道府県道・市町村道で、40km/h制限になっている道路でも、60km/hまで引き上げても問題無い区間は幾らでもあると思う。
そういうところでのしょうもない取り締まりには精を出すクセに、こういう危険運転は死傷者が出ない限り、重い腰を上げないのが今の警察組織の体質なのだろう。

もう、出生数を増やしたければ、大きな経済的恩恵を用意するしかないけれど……

2019年05月07日 23:00

毎年、5月5日になると、総務省は日本の子供の数に関する統計データを公表することが恒例となっているが、今年のそれによれば、2019年4月1日の時点で、15歳未満の子供の数は前年同時期に比べて、18万人減少している1533万人となり、1982年から38年連続で減少が続いている上、記録のある昭和25年以降、過去最低値でもあるそうな。

もう、ここ数十年、この国の出生数が減少し続けている原因について、他でさんざん取り上げられているから、今更、今回の記事では触れることは止めておく。

もはや、出生数を増やす対策として効果があると考えられることは、もう、子どもがいることで経済的に大きな恩恵が得られる制度を作るしかないんじゃないか。
単純に15歳未満の子どもに一人当たり、毎月10万円は手当を支給するのだ(まぁ、所得や資産がある一定の水準以上の世帯は除外してもいいだろう)。

仮にこれをいますぐ実行して、その餌に釣られた国民によって、今年200万人の子どもが生まれたとしたら、来年の今頃、15歳未満の子供の人口は1733万人ぐらいにになる。その全てに毎月10万円の手当を支給することにしたら、年間で幾ら必要になるのかを計算してみたら、20兆7960億円という金額が出た。

「そんな金、どこから持ってくるのか?」という財源の問題は、相続税や贈与税が無税の取り扱いになる国債でも発行して、何百兆円もある高齢者の個人金融資産を吐き出させればいい。

出生数を増やすことだけを考えるならば、こういう乱暴な方法で大きな経済的恩恵を用意することで、解決できるかも知れない。

しかし、人口さえ再び増加する軌道に乗せれば、何でも解決して、バラ色の未来が待っているみたいな発想は、あまりに安直な考えだろ。

幾ら人数が増えたって、それを教育し、かつ、その成人後は個々の能力を発揮できる職業とかをちゃんと用意できなければ、落ちこぼれる奴の割合が高くて、却って社会のお荷物になるだけだ。そんなこと、今の氷河期世代の問題を見れば、明らかだろーが。

つまり教育のシステムや労働法制、産業の振興政策など、他にも根本的に改革しなければならないことがあって、それらをおざなりにしたまま、やみくもに多子化政策を推進したところで、“第二次氷河期世代”を生産してしまうのがオチだぞ。