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若者・子供が想定の範囲内でグレないことを心配する大人たち 

昨日の尾崎豊に関する話題の続きだが、あんな内容の歌詞が倫理の教科書に掲載さているということに呆れている。


「反抗の歌と思われるが、テーマはむしろ他者との関係の中でのアイデンティティーの問題だ」と話す。

別にファンとかが、そういう解釈をして、それを主張するのは自由だとは思うんだけれど、教育現場に持ち込むのに相応しいとは言えるんだろうか?
「教育改革ごっこ」に熱心な「美しい国」一派は、イチャモンをつけないのか?

馬鹿が。バイクやチャリを盗まれた奴の気持ちを想像してみろってんだ!


尾崎の歌が、いくつかの倫理の教科書に登場したのは03年。堀さんはその少し前から、積極的に尾崎の考え方を授業で採り上げてきたが、最近は減らしている。「彼の歌に生徒たちが実感を持てなくなってきた」のが理由だ。

「学生の反応は年を追うごとに悪くなっている」と精神科医の香山リカさん(46)も言う。00年ごろから大学の授業で「卒業」などを聴かせている。当初から「この怒りがどこから来ているか分からない」という意見はあったが、最近はきっぱりと否定的な感想が目立つという。
「周りに迷惑をかけるのは間違い」「大人だって子供のことを思っているのに反発するのはおかしい」。体制や大人に反抗するのはいかがなものかという声だ。香山さんは「これまで成長のプロセスにおける仮想敵だったはずの親や先生の善意を屈託なく信じている」と首をかしげる。


この記事は朝日新聞の物で、この香山っていう医者の先生は護憲運動の組織『9条の会』の重鎮みたいだけれど、サヨクのオジサン・オバサンはこういう考え方の持ち主が多いんだろうか?

でも、何か反抗すれば、それはそれで、「若者がおかしい」とか、大仰に言うような気もする。

この記事を読んで、こういうことを考えていたら、思い出した話なんだけれど、宮崎駿が新作の制作を発表する席で、倅の吾朗が監督した『ゲド戦記』を観て、「息子の育て方を間違った」などということを公言した出来事だ。
宮崎監督はあの作品を自分への反抗と解釈しているらしい。

「こんなことになったのは吾朗が5歳の時、仕事ばかりで付き合っていなかったからだ。二度と吾朗みたいな子をつくらないために」

以前、俺はこの記事を読んで、「何を言っているんだろう?」と首を傾げたんだが、これこそ、あの映画の冒頭のアレンが父王を刺殺する場面は「子供が成長のプロセスにおける仮想敵を倒す」心理の典型だと解釈しているので、「おかしなことを言って、自分の晩節に泥を塗っている人だな」と失笑したものだよ。

要するに、今の社会の上の年代はこういう人間ばかりって気がしてくるのだ。
反抗すれば、頭ごなしに抑えるかと思えば、反抗しなければ、それもおかしいなどと気にする。ああ言えば、こう言うのだ。

何も左翼系の思想を持った人々に限ったことではない。

以前、取り上げた著書だが、一度は左翼運動に身を投じていたが、今はとっくに足を洗って、保守的家族観の布教をやっていて、保守層の間でジェンダー・フリー撲滅運動の旗手にされているユング研究家の林道義の著書『父性の復権』の内容もそんな感じだった。

要するに、今の大人は若者・子供が自分たちの想定の範囲内でグレていないから、不安を感じている(今に限ったことではないかも分からない)ということだろう。

そういう社会がウザくて淡白になっている子供とか、或いは中島義道みたいな厭世観にシンパされて、今の大人の想定の範囲外でグレている子供が少しずつ増えているかも知れない(笑)。


拝啓、尾崎豊様――

相変わらず、学歴による差別は世の中から無くなっておりません――

2007/04/26 20:00|音楽、サブカルチャーCM:0
 

神格化された不良のアーティストは、学校の教科書に掲載されるということ 

没後15年尾崎はどこへ 消えた反抗心

シンガー・ソングライターの尾崎豊が亡くなって25日で15年を迎える。若い世代の反抗と苦悩を描き、いかに生きるべきかを探し続けた歌は、いまや教科書にも登場する。「若者たちの教祖」「10代の代弁者」といった従来のイメージから変化が見られる一方、肝心の若者たちの心にその歌は届いているのだろうか。

 彼の歌がわたしたちの胸を打つのは、彼が自分について問い続けたからだろう――。
 教育出版が発行する高校の倫理教科書に、「僕が僕であるために」「永遠の胸」などの歌詞の一節とともに、尾崎はそう紹介されている。
 〈盗んだバイクで走り出す〉(「15の夜」)、〈夜の校舎 窓ガラス壊してまわった〉(「卒業」)。社会へのいらだちを過激につづった歌詞は教育現場にそぐわないように見えるが、意外にも「現場の教師から、自己の生き方を模索する代表例と勧められた」と教育出版の担当者は言う。

 教科書の監修に携わった大阪の府立高校教諭、堀一人さん(53)は「反抗の歌と思われるが、テーマはむしろ他者との関係の中でのアイデンティティーの問題だ」と話す。

 〈人は誰も縛られたかよわき小羊ならば 先生あなたはかよわき大人の代弁者なのか〉。窓ガラスを壊す一節が注目されがちな「卒業」だが、学校や教師との単純な対立軸に回収しきれない戸惑いこそがこの曲の魅力を作り出している。

 尾崎の歌が、いくつかの倫理の教科書に登場したのは03年。堀さんはその少し前から、積極的に尾崎の考え方を授業で採り上げてきたが、最近は減らしている。「彼の歌に生徒たちが実感を持てなくなってきた」のが理由だ。

 「学生の反応は年を追うごとに悪くなっている」と精神科医の香山リカさん(46)も言う。00年ごろから大学の授業で「卒業」などを聴かせている。当初から「この怒りがどこから来ているか分からない」という意見はあったが、最近はきっぱりと否定的な感想が目立つという。
 「周りに迷惑をかけるのは間違い」「大人だって子供のことを思っているのに反発するのはおかしい」。体制や大人に反抗するのはいかがなものかという声だ。香山さんは「これまで成長のプロセスにおける仮想敵だったはずの親や先生の善意を屈託なく信じている」と首をかしげる。
 どんな価値観の変化があるのか。香山さんは「反発したり、知りすぎたりすると損をする。損得勘定が判断の基準になっている」と分析する。他者や社会との関係で揺れ、傷つく姿を歌ってきた尾崎の歌とは対照的な考え方。彼の実人生に対しては、こんな感想さえあった。「容姿にも才能にも恵まれているのに変に反抗して、早く死んだのはバカだ」

 学校や親への反抗、自分という存在についての不安。尾崎が歌ってきたのは、若者にとって普遍と思われるテーマだったはずなのに、嫌悪にも似た反感が生じている。

 尾崎の生涯を描いた著書がある作家吉岡忍さん(58)は「彼の歌は、内面に深く食い込んできて、いまの若い人にとって触ってほしくないところに及ぶ。現状に適応してトラブルなく日々を過ごすことに価値を置くと、そこに気づきたくないのだろう」と語る。  身近な人間関係に敏感過ぎるほど敏感といわれる現在の若者たちにとって、〈友達にさえ強がって見せた 時には誰かを傷つけても〉(「卒業」)と歌う尾崎は余りにも重すぎるのだろうか。

 それでも、その影響は消えたわけではない。尾崎の作品を発売するソニーミュージックレコーズによると、96年発売のベスト盤は約170万枚売り、いまなお年10万枚程度売れ続けている。ミスター・チルドレンらが参加したトリビュート盤(04年)の影響もあってか、10代のファンも増えてはいるという。

 人気ダンスグループ、EXILE(エグザイル)の元メンバーで、いまはソロ歌手として活動する清木場俊介さん(27)はライブで、尾崎の「米軍キャンプ」や「太陽の破片」を取り上げる。小学生のころから歌を耳にして、尊敬してきた。「どこにもぶつけられない気持ちがダイレクトに響いてきた」と言う。
 「代弁者」という尾崎に張られたレッテルには違和感を覚え、「弱さを含めて自分をさらけ出す強さ」に魅力を感じるという。本人も「一度しかない人生だから、ぶつかったり、挫折したりを含めて思い切り走っていきたい」と、ソロ転向の道を選んだ。

 いま尾崎を聴くことの意味は何だろう。吉岡さんは「メッセージをそのまま受け入れる必要はない」と言う。そのうえで、何げない日常の、ある情景を鮮やかに切り取り、世の中を違った風に見せた彼の「手法」を高く評価する。
 「漠然と状況に流され、追従するのでなく、自分とその周りの社会や世界を見るために、彼の手法の大切さは感じてもらいたい」



尾崎豊が覚せい剤取締法で捕まってから、東京拘置所を出た後に音楽活動を再開した時期、俺は中学に入っていた。謎の死を迎えたのは、自分が高校に通っている時代のことだった。世間の一部の定義によれば、俺も尾崎世代(?)に属する人間ってことにされているらしい(笑)。

今日は自分の趣味の話も少し書くが、尾崎世代だなんて括られている自分でも、リアル中・高校時代は尾崎豊というアーティストの音楽に触れたことは無い(尤も、俺は中学時代ぐらいまでは、音楽・J−POP自体にあまり興味が無かった)。

没後、今のような周忌の前後などに、定期的にメディアで取り上げられることが繰り返されていきているけれど、、何年か前にそれで興味が向いて、CDを聴いたのだ。
でも、自分が良いと思ったのは、『核(CORE)』という曲(これは、深いと思う)ぐらいで、他の殆どの曲には何も惹かれるものを感じなかった。
僕も屈折した思春期・水色時代を送ってきた奴だけれど、多分、中学時代に聴いたとしても、何のシンパも無かっただろう。

大体、コアなファン層の間では、メディアによって「大人への反抗」の象徴に祭り上げられることを嫌悪している人が多かったみたいだし、当の本人だって、そういうイメージの独り歩きに困惑していたそうだ。
だから、尚更、上記のニュース記事の香山リカのコメントは「イタい」ものに聞こえてくるのだ。

今回のニュースを読んで、最も驚かされたことは、あんな内容の歌詞なのに、高校の倫理の教科書に引用されているという現実だ。

「でも、そんなものかも知れないな」とも思う。

自分の中学時代の出来事なんだけれど、英語の教科書に『ビートルズ』をテーマにした英文が掲載されていた。
当時、通っていた塾の講師の先生は、そのことに驚いていて、こんなことを言っていた。
「『ビートルズ』が教科書に載っているなんて……。僕が子供の頃は『ビートルズ』なんて言ったら、不良が聴く物だなんて言われていたからね」
昔、ビートルズが日本へ公演にやって来た時、その会場は日本武道館が選ばれた。
今の感覚では信じ難い話なんだけれど、「ビートルズが演奏する曲のジャンルは日本武道館には相応しくない」みたいな固い考えで、その公演を批判している奴が少なからずいたらしい。

「神聖なる日本武道館でロックバンドが演奏することなどけしからん」
(朝日新聞の記者から政治評論家に転向した細川隆元の言葉)


1960年代、「ビートルズは不良」といわれていた。

1980年代後半、「尾崎豊は不良」といわれていた。昔は不良の象徴だった『ビートルズ』が教科書に載る。

2000年代、『尾崎豊』が教科書に載る……


きっと、十代の子供の信仰を集めている「不良の教祖」みたいなもの――今だって、どこかのアーティストが神格化されている現象があるような気がしないでもない。
それが10年後、学校の教科書に載る(笑)。
社会って、それの繰り返しなんじゃないかって気がしてきた。

まだ、書きたいことはあるけれど、長くなるから、続きは別の日に。
2007/04/25 20:00|音楽、サブカルチャーCM:0
 
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