駄猫の時事放談

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本当の友情 

最近のパチンコには、『花の慶次』があるそうだ。

知らない人のために説明するが、『花の慶次』とは、僕が中学生か高校生ぐらいの頃、少年ジャンプで連載されていた漫画作品のタイトルである。
作画は『北斗の拳』の原哲夫だが、原作は隆慶一郎の歴史小説で、主人公の前田慶次郎利益は戦国時代の実在の人物だ。
乱世の世の中でも、飛び抜けた型破りだが、一流の教養人の側面もあった好漢だったらしい。

俺は単行本を全巻揃えてあって、それが今でも家にあるんだけれど、最近、たまたま読み返してみて、考えたことがあったから、また、取り留めのない話になるけれど、今回の記事を書くことにした。

この漫画作品の前田慶次という男の処世観(という言葉は不適切かも知れないが……)で、奇抜に見えることのひとつを挙げると、彼なりの友情の概念がある。
自分を殺めようと図って近付いてくる相手に対してすら、いや、そういう命のやり取りをする相手だからこそ、厚い友情を覚えるようになるところが度々、描写されているのだ。
石田三成に対して、供(友)の捨丸のことを「あいつは俺を殺すのが夢なんだ」などと紹介する場面もある。

しかし、この漫画の前田慶次ばかりがそういう処世観なんだろうか?

そういう描写がストーリーの主体になっているような作品は、他にも多いような気がする。

『北斗の拳』もそうだろう。主人公のケンシロウは、一度は腹の底から憎悪して、死闘を演じてきた戦士たちのことを強敵(とも)と総称している。

『ドラゴンボール』もそうだと感じる。
ベジータとか、ピッコロとか、最初はとんでもない悪人で、利害が一致するようになっても、とても信用できる相手ではなかったが、いつの間にか、悟空の親友になっているからな。

今日の記事の要点をここで書いてしまうが、友情とか、友達とか、そういうふうに呼べるものって、一度は相手を殺したくなるほどの憎悪を感じて衝突しないと、本物の関係は築けないんじゃないかということを考えるようになったのだ。

「友達」っていう言葉について、人それぞれ、どの程度の付き合いをしたら、そう呼ぶかどうかの定義を持っているとは思うのだけれど、たまにはこういうことを考えてみるのも面白いかも知れない。

これを漫画の世界だけの話だと思って、失笑せず、もうちょっと俺の話に付き合ってくれたまえ。

先に『花の慶次』で書き出したから、史実のことを連想するが、この漫画には伊達政宗も登場するんだけれど、16世紀後半の伊達家は近隣の国々との関係が険悪だった。
外患の中に相馬という大名(現在の福島県に領国があった)もいたんだけれど、何十回も交戦を繰り返してきて、不倶戴天といっていい関係だった。
その相馬家は関ヶ原の合戦の時、直接、東軍に弓を引いたわけではなかったが、西軍についた佐竹の兵が領内を通過することを黙認してしまったので、戦後、徳川家にそれを突っ込まれて、改易されそうになった。
結局、その最悪の沙汰は免れて、幕末・維新まで、相馬家は大名として存続することができたんだけれど、宿敵だった筈の伊達政宗が取り潰しにならないように、幕府に政治工作を働きかけていたらしい。

どうして、単純に「ザマーみろ」って笑って、溜飲を下げるだけにならなかったの?
単純に考えれば、長年、憎悪し続けて、本気で滅ぼそうと思っていた相手じゃないか?
何か計算もあったんだろうけれど、何十年も抗争を続けてきた相手に、ある種の感情を抱くようになったところもあったのだろう。

武田家と上杉家の関係もそうだろう。信玄は亡くなる前、自分の後継者に「危機が訪れたら、上杉を頼れ」って言い残したらしい。

人と人の関係も、国と国の関係も、実は生死の掛かった衝突を経なければ、本当の友情とか、信頼関係って築けないのかも知れないな。
そんなことを考えるようになった。

じゃあ、今の平和な日本に暮らしている現代人はどうなんだろう?
子供がいる家庭の中には、いじめも含めて、子供の友達関係に悩んでいる人が多いだろ。
大体、自分の子供には、どんな友達が必要、こういう子と付き合わせたいっていう考えを持っている親はいるだろうし。

3年前、『女王の教室』っていうテレビドラマが物議を醸しただろ。ここのブログでも、ちょっと感想を書いたが。
志田未来が演じた主人公が、いじめられて、学校に来られなくなる場面があったが、それを乗り越えて、却って前よりも友達との信頼関係が深まった展開になったよな。

「いじめは絶対に悪い。許されない。」っていうのが、社会的コンセンサスになっているわけだが、究極的には必要悪なのかも知れない。
そういう軋轢を乗り越えられないと、本当の友達って作ることができないのかも知れないですよ。

4年ぐらい前、佐世保でネット上のチャットか何かの発言に頭にきて、同級生をカッターで刺し殺しちゃった女児がいたよな。あれだって、被害者の女の子が死ななければ、もしかしたら、加害者と被害者はお互いの理解が深まって、無二の親友になれたかも知れないじゃないか。

今日のトンデモ発言だが、いじめとか、キレる子供が深刻な社会問題として受け止められているわけだが、自分の子供がそうなったら、一生の財産になる友達を得られる機会なのかも知れないぜ。
勿論、死んじゃったり、一生まともな社会生活を送れなくなっちゃうリスクもあるけれど。

だから、曲解しないで欲しいが、「そういう友達は絶対に必要だから、恐れずにリスクを取ろう」だなんて訴える気は無い。
そんな「友達」なんて必要無いから、自分の子供がいじめに関わったり、キレたりするようなことにならないように育てたいっていう考えもありっていうか、当然だと思う。

ただ、今日の俺の記事の意図は、大半の現代人が普段、何気なく漠然と使っている「友達」という言葉について、たまには深く考えるきっかけになればと思って書いてみただけさ。

友達って何でしょうか?
2008/05/25 09:19|教育CM:0
 

苦情を言いに来る保護者を一律に怪物扱いする学校・行政 

最近、ニュースサイトで「モンスターペアレンツ」という言葉をよく目にするようになった。
学校に無理難題・理不尽な要求や苦情を言ったり、非常識なことをする保護者のことをそういうふうに呼称することを誰かが始めて定着した時事用語である。

このニュースを記事に取り上げたブログを幾つか読んでみたが、まぁ、「非常識な親」に呆れる意見ばかりだ。
あと、教師がその現場で自分の手腕で解決する能力が無くなって、昔と比べて、聖職者の威厳が失墜したことについて、嘆いているような意見もあった。

そんな小学生レベルの作文をこのブログで書いても面白くないので、ちょっと変わった俺の意見を書いてみよう。

まず、俺はこの「モンスターペアレンツ」という言葉にある種の反感を覚えた。
何だか、学校に絶対の信頼を寄せず、ちょっとでも不信感を持って、それを露にした保護者を一律に精神病の扱いをしているように聞こえる。

ニュースで幾つかの非常識な親の言動の例が挙げられているが、本当に非常識な振る舞いをしている奴が少なからずいるということについては、俺も認める。

だけれど、それを「非常識」「モンスター」と呼ぶのは、間違っているんじゃないかって感じる例もあった。

http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/abc/newword/070703_8th/

例えば、上記のリンク先では、

モンスターペアレントが学校に持ち込む苦情や要望は、常軌を逸脱している。「自分の子供はテニスが得意だが、学校にはテニス部がないので作ってほしい」。
の件がそうだ。

http://www.chunichi.co.jp/article/living/life/CK2007070102028640.html

次のリンク先では、

「学校の監視」は徹底している。校庭を見下ろす高層マンションに住む保護者は、双眼鏡で体育などの授業の様子をチェックしては、翌日の連絡帳に「ここはこういう指導法に変えた方がいい」などと細かく“アドバイス”してくるという。

の件がそうだ。

また、上記と似ているが、「参観日に授業を録音した親が『先生の授業はここがよくない』と指摘 」したことも非常識の例になっている。

実は俺も非常識な人間なのかも知れないが、「学校にテニス部を作って欲しい」という要望とか、「授業はこういうふうにして欲しい」という要望を言うことの何が悪いんだろう?
一連の記事を読んで、それを書いた記者・編集者の常識も疑ってしまった。

何というか、日本の社会は「教職者は聖職だから、保護者は固く信頼して、保護者会以外の日にみだりに学校に立ち入ったり、批判するようなことを言ってはいけない」みたいな雰囲気があるということなんだろうか?
そうだとしたら、そっちの方が万倍「モンスター」だし、それがいじめや教師の不祥事の温床になるんじゃないかって気がするのだ。

それに、こういうことを嘆いている者に顕著な傾向を挙げると、学校の教師に万能感を求めているところがある。つまり、理不尽なことを言ってくる親を自分の機転であしらえない先生が増えて、外部の人間が対応に入るようになったことについて、嘆いているような意見だ。
どうやら、今の世の中、『女王の教室』の阿久津みたいな人間を理想の教師像だと考えている奴が多いみたいだ。

本当に非常識な保護者は、そういう体質を逆手にとって、色々な理不尽を突きつけてくるではないか。

だから、前も同じような意見を書いたことがあるが、俺の意見は逆なのだ。いっそのこと、今の教職員は知育だけに専念させて、それ以外は責任を負わず、別の担い手を積極的に現場に受け入れていった方が良いと思うのだ。
皆、何でも先生・学校に要求し過ぎるんだよ。


都内のある公立小学校の校長(58)は「消費社会の中で、親の意識が『学校とともに子どもを育(はぐく)むパートナー』から『サービスの受益者』に変わり、顧客満足度が学校評価の物差しになった。その上、以前は地域で子育てする中でわが子の位置を自然に把握できたが、今は近所付き合いもなく自分の子しか眼中にない親が増えた」と分析する。

上記のコメントは多分、批判的な論調だけれど、もし、今の教育再生を推進している政権側に、こういう認識の奴がいるなら、その人選は問題だろう。
大体、小泉から継承して、安倍がやっている構造改革ってヤツは、こういう公的な分野にもサービスの競争原理を持ち込むことに他ならないじゃないか。
「それの何がいけないの?」って思いますわ。
2007/07/23 20:00|教育CM:0
 

教科書には両方の主張を併記すれば 

【東京】文部科学省は三十日、二〇〇八年度から使用される高校教科書(主に二、三年生用)の検定結果を公表した。日本史A、Bでは沖縄戦の「集団自決」について、日本軍が強制したとの記述七カ所(五社七冊)に、修正を求める検定意見が初めて付いた。文科省は「集団自決」に関して今回から、「日本軍による強制または命令は断定できない」との立場で検定意見を付することを決定。これに伴い、各出版社が関連記述を修正した結果、いずれの教科書でもこれまで日本軍による「集団自決」の強制が明記されていたが、日本軍の関与について否定する表記となった。
文科省は「最近の学説状況の変化」や大阪地裁で係争中の「集団自決」訴訟での日本軍元戦隊長の証言などを根拠に挙げているが、教科書問題に詳しい高嶋伸欣琉球大学教授は「合理的な根拠がなく、日本軍の加害責任を薄める特定の政治的意図が透けて見える」と批判。

さらに修正後の記述についても「住民がどのように『集団自決』に追い込まれていったのか、実態がぼやけてしまっている」と指摘した。



現宰相の安部晋三の周辺に集まって、教育改革に熱を上げている新保守主義者たちは、英王国のサッチャー女宰相の政権の改革をモデルにしているらしい。
英王国の改革はどんな内容が含まれているかといえば、過去に国家が犯した犯罪(奴隷制度)について、偏向的に書かれていた歴史の教科書の記述を修正して、子供たちが自国の歴史に嫌悪感を持つことを未然に防ぐという改革案も通ったそうだ。
つまり、日本の教科書問題のお手本として、うってつけの事例と見ていて、その実践が今回の検定結果に繋がったのだろう。

教科書の記述の問題はともかく、今、法廷でも真偽が争われているけれど、「肯定派」が言っていることも、「否定派」が言っていることも、実際にあったことなのだと思う。

当時、国・軍は事前に沖縄が戦場になることを想定していたが、地理的な要因のせいもあって、民間人の本土への疎開は進まなかった。
軍が緘口令を敷いても、「富士丸」や「対馬丸」などの船が撃沈された事件の話が県民の間に広まっていたこともあり、船舶での疎開を躊躇する人も多かったそうだ。

だから、島内には安全を確保できる土地も無く、民間人の犠牲者も多くなってしまったのだけれど、戦火で家や働き手を失って生活が困窮するであろう人のことを見兼ねて、「この人たちは俺の指揮下で戦っていたのだ」などとという証言をして、国から年金がもらえるように算段をした人は、赤松嘉次という人物の他にもいたのだと思う。
ある本で、それと同じ考えで、自分の手を汚すことをやっている人の話を読んだことがある。

また、当時の日本人の西洋人に対するイメージだが、「捕虜になったら、酷い拷問を受ける」と考えて、自殺した人も少なからずいたと思う。
現代人の我々ですら、米帝に占領されたばかりのイラクで、米国兵が捕虜を虐待しているニュースを聞いて、欧米人の有色人種に対する感情を垣間見ている。
60年前の人の頭の中では、ホントに鬼そのものだったのだろう。

だけれど、戦場の死と隣り合わせの極限状態で、県民に酷いことをした将兵がいたことも事実に違いないから、歴史の教科書から「集団自決」を削除することに強い反発を覚える人が少なからずいることもしょうがないと思う。

沖縄戦の他にも、原爆投下、日韓併合、南京大虐殺、従軍慰安婦……、どの問題にも言えることだけれど、もう、現代史の教科書のそういうテーマは、左右両方の主張を一緒に載せる以外に無いと思う。
上の世代が左右に分かれて、「これは記述しろ」とか、「それは捏造だから削除しろ」とか、切りがない議論を続けても仕方が無い。

結局、若い世代は自分の頭で考える以外にないんだから、大人がしてやれることは、そのための出発点を整えてやることぐらいなのではなかろうか。
2007/04/02 23:00|教育CM:0
 

給食費未納問題 

25日の朝刊の社会面に載っていた記事ですが、全国で約96,000人の児童生徒は、その保護者が給食費を納めていないということが、文部省の調査で明らかになったそうです。
不況や雇用の不安定化などで、家庭の経済状況が厳しいというケースも増えているが、親の規範意識が低下していることを指摘する声も上がっている。
この記事はどちらかというと、経済的にある程度の余裕がある筈なのに、それを踏み倒している家庭が増えている現象に焦点を当てる書き方になっている。
記事の終わりには、小野田という大阪大の教授の「未納者が増えている原因を貧困か、規範意識の二択だけに区分する調査手法は乱暴だ。生活保護・就学援助を受けていなくても、負担に耐えられない低所得層者が増大しているのではないか。『規範意識が欠けているから』と原因を単純化できない」などというコメントが掲載されていた。

こういう話題が出ると、特に保守思想の論者の中から、教育やモラルの荒廃を指摘したがる奴が多いのだが、基本的に思想がリベラルに寄っている俺もそれは一部認める。
でも、そこは馬鹿右翼のブログと差別化しているところなのだが、俺は社会の様々な問題の原因を、何でも個人のモラルに帰させる風潮が嫌なので、自分なりに考えたことも書いてみたいと思う。

これは前も同じようなことを書いたんだけれど、子供の給食費を納めない人々の行動は、福祉を次々に切り下げて、税金を上げる一方、それなのに議員や役人は滅茶苦茶なことをやっている政府に対する抵抗運動のようなものに見えなくもない。まさか、誰もそんなことは自覚していないだろうけれど、そういう集合無意識のようなものがあるのかも知れない。
「福祉の水準は切り下げるクセに、税金や保険料の負担は上げるんだから、子供の給食費ぐらいサービスしろ!」っていう意識をどこかで持っているんじゃないかな?

中には「住宅ローンの負担が重いから、払えない」と言っている親もいるらしい。
未納世帯には本当に困窮していて、本来の趣旨通りに生活保護を受けているような家庭もあるだろうし、公営住宅に住みながら、高級外車に乗っているような893の家庭もあるだろう。しかし、この記事を読んだ印象では、普通の会社員の世帯の間でも増えているのではないかと感じた。

小野田教授のコメントを読んで考えたことだが、今、小学生ぐらいの子供を持つ親の年齢は、団塊ジュニア世代に差し掛かっている。要するに、バブルが崩壊してから就職した世代で、同じ会社にずっと勤続しても、不況で給料が上がり辛い。それで、賞与からも社会保険料が徴収されるようになったり、不況に増税が追い討ちを掛けて、特に若い層で子供がいる世帯は、家計が苦しくなっている。
忍耐力・モラルが低下していると言えば、それまでだけれど、負担増に合わせて、自分たちの生活水準を落とすことが追いつかない人が増えているということだろうか。

その辺の「規範意識の低下を嘆く」ことばかりを書いているブログとは違ったことを書くけれど、俺が思うことは、今の日本は少子高齢化だからといって、「子供がいる家庭には、経済支援をしなくてはいけない」などという風潮が悪いんじゃなかろうか。
だから、子供がいる世帯の中には、「自分たちは人口減少に歯止めを掛けることに貢献しているんだから、子供の学校の給食費をフリーにしてもらうぐらいのことは当然だ!」みたいな間違った権利意識を持ってしまう奴もいるんじゃないかな。

俺は国の人口がどこまで減ろうが、そういう意識の人間には、最初から出産を控えてもらいたいと思っている。碌でもない大人になるだけだ。
でも、自分と同世代――今の子育て世代のことばかりを悪し様に言ったり、責めるつもりもない。今の20代30代は教育の荒廃のせいで、規範意識が低いだなんていう決めつけにも同調する気はないのだ。
元々、自分たちの生活水準を落とさないために、出産する子供の人数を抑制する習慣を始めたのは、今の子育て世代の親世代からだったし、政府も国民の私生活をそういうふうに誘導してきたところがあるからな。

しかし、それはそれで、未納者をこのままにしていいというわけではない。
俺はこの問題を綺麗に解決する方法は、両極端の二通りしかないと考えている。
ひとつは子供がいる家庭に対して、一律に給食費に相当する税額を給与から天引きで徴収するしかない。言い方を変えれば、「児童手当」とやらを小学校6年まで支給するくらいなら、これを廃止して、給食費は完全無料にすればいいじゃないか。馬鹿な親に小銭を与えて、自治体に督促業務をやらせれば、余計に時間と人件費の無駄遣いだ。
こんな福祉の支給の仕方をするから、勘違いする馬鹿が急増するのだ。

もうひとつは、学校給食の完全民営化だ。
世の中、ある程度の助け合いは必要だけれど、給食費を納めている家庭の子供も、未納の家庭の子供も同じ物を食べられるだなんて、小泉改革などが支持されて、市場化の潮流の社会なのに、不自然だと思わない?
悪平等の極み、社会主義みたいではないか。

以前、学校で朝食を出すことについての記事で書いたことと矛盾しているように見えるかも知れないが、学校給食は食費を納めた家庭の子供だけに食べさせればいい。
まともに子供の給食費を支払っている親は、学校給食なんて馬鹿馬鹿しいと思っているんじゃないの?
給食費を払わない家庭は、子供に弁当を持って行かせればいいではないか。
それで、毎日の昼休みにちゃんと昼食を食べていない児童・生徒がいれば、その子の家庭には何か問題があることが、担任の先生の目にもすぐにハッキリするだろ。
場合によって、児童相談所や警察に連絡すれば、虐待の早期発見・解決に繋がるではないか。
2007/01/28 20:30|教育CM:0
 

いじめが起こる原因 

北朝鮮が核実験を強行するというニュースに世間が震撼するより少し前のことだが、北海道の滝川で小学校6年生の女の子が学校での「いじめ」を苦にして、遺書を残して自殺したというニュースを読んだ。

今はインターネットを利用して、ブログなどで自分の意見を広く発表することが容易になったから、この問題についても、自分の考え方を主張している人が多い。
幾つか読んだけれど、中には自殺した子の親の責任を問うようなことを書いている人もいた。
「子供の様子が少しでもおかしければ、分からない方がおかしい」などという批判だ。

私は子供を育てたことが無いから偉そうなことは言えないのだが、子供は大人が想像している以上に、家の外での状況の変化を悟られないように隠すのが上手いのではないかと思う。

「北海道」「いじめ」と言えば、10年位前、酷いニュースを読んだことがある。
公立の中学校で、ある女子生徒が10人ぐらいの男子生徒に輪姦されていた。学校の先生は女子生徒に救いを求められても見て見ぬ振りをしたそうだが、後で女子生徒の両親は学校の不誠実な態度を裁判で訴え、損害賠償を求めたんだそうだ。

でも、そういう性的ないじめも多いみたいで、ネットで体験談が多く読めるところがある。
新聞とかに載った北海道の10年前のその事件は氷山の一角と呼べる例外で、大抵はそういうことを親に言える訳がないだろ。

いじめに苦しんでいる子供をどう助けるかという課題については今回の記事では預けるが、いじめが起こる原因について、自分が考えていることを書こうと思う。

恐らく、いじめの加害者の子供は家庭で両親から虐待されているのだ。或いは学校の先生とか、もっと強い上級生から虐げられているのかも知れない。
加害者の子供の母親は父親に暴力を振るわれているだろうし、女房に暴力を振るっている亭主は勤務先の会社で上司からいじめられているのだろう(自営業者だったら、いつも仕事をもらっている元請企業から、色々と無理難題を言われて苦しい思いをしているだろう)。
その上司だって、会社の経営者の理不尽な仕打ちに悩んでいるだろう……。
そういう連鎖を辿って行くと、日本という国の政府や官庁もそうだろうし、一番上はアメリカとか、ロシアとか、中国とか、世界のがさつな民族の国家に行き着くのだ。

……こんな感じのことが、マルキスト・青木雄二の本に書かれていた。「だから、資本主義は間違っている・矛盾だらけだ」みたいな、この人のお決まりの持論に流れていく。
その持論(資本主義よりも共産主義の方がいい)に賛同できなくても、概ね的を得ているモノの見方であることは確かだと思う。

でも、興味深いことだが、恋愛科学研究所の藤田徳人は、共産主義者の青木雄二とは逆に「自由競争が徹底している社会の方が、平等が強要されている社会主義の社会よりも、いじめは少ない」と言っている。
俺がこのブログで何度か紹介している教育をテーマにした下記の著書には、いじめを無くす方法について、具体的な提言が書かれている。

どうして勉強しなくちゃいけないの?
藤田 徳人著
PHP研究所 (2004.6)
この本は現在お取り扱いできません。


詳しくは、読んでもらった方が良いが、凡そのことを書くと、自由な競争が容認されれば、格差が拡大しても、勝者は自発的にボランティアをやるから、結果として、資本主義の社会は共産主義よりも全体的に豊かになれるし、子供のいじめなどの問題も少なくなるなどという理屈だ。
だから、子供にボランティアの重要性を教育するべきだと提言しているのだけれど、学校や大人が義務として押し付けるのは無意味で、飽く迄、自分の意思で自発的に行うように誘導する教育が必要だと主張している。
つまり、安倍宰相の「大学入学者に半年間、奉仕を義務付ける」というアイデアも駄目だということだな。

俺は藤田の提案は試してみるだけの価値はあると思うが、資本主義の社会は共産主義の社会と比べて、いじめが少ないというのは嘘だと思う。
上に書いたけれど、結局、「いじめの連鎖」を上へ遡っていけば、アメリカのような市場経済の国もあれば、共産主義の国もあるのだと思う。

結局、子供のいじめの問題は、大人社会の照応であるから、それを綺麗にしない限り、加害者もそうだけれど、家庭の両親や学校の責任を問うても、根本的な対策にならないと思うし、無くすことは殆ど不可能に近いような気がする。
現実問題として、いじめを受けている本人や、その周囲の人々の対策を考えなければならないと考えるが、それは別の機会に考えようと思う。
2006/10/18 23:00|教育CM:0
 
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