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本当の友情 

最近のパチンコには、『花の慶次』があるそうだ。

知らない人のために説明するが、『花の慶次』とは、僕が中学生か高校生ぐらいの頃、少年ジャンプで連載されていた漫画作品のタイトルである。
作画は『北斗の拳』の原哲夫だが、原作は隆慶一郎の歴史小説で、主人公の前田慶次郎利益は戦国時代の実在の人物だ。
乱世の世の中でも、飛び抜けた型破りだが、一流の教養人の側面もあった好漢だったらしい。

俺は単行本を全巻揃えてあって、それが今でも家にあるんだけれど、最近、たまたま読み返してみて、考えたことがあったから、また、取り留めのない話になるけれど、今回の記事を書くことにした。

この漫画作品の前田慶次という男の処世観(という言葉は不適切かも知れないが……)で、奇抜に見えることのひとつを挙げると、彼なりの友情の概念がある。
自分を殺めようと図って近付いてくる相手に対してすら、いや、そういう命のやり取りをする相手だからこそ、厚い友情を覚えるようになるところが度々、描写されているのだ。
石田三成に対して、供(友)の捨丸のことを「あいつは俺を殺すのが夢なんだ」などと紹介する場面もある。

しかし、この漫画の前田慶次ばかりがそういう処世観なんだろうか?

そういう描写がストーリーの主体になっているような作品は、他にも多いような気がする。

『北斗の拳』もそうだろう。主人公のケンシロウは、一度は腹の底から憎悪して、死闘を演じてきた戦士たちのことを強敵(とも)と総称している。

『ドラゴンボール』もそうだと感じる。
ベジータとか、ピッコロとか、最初はとんでもない悪人で、利害が一致するようになっても、とても信用できる相手ではなかったが、いつの間にか、悟空の親友になっているからな。

今日の記事の要点をここで書いてしまうが、友情とか、友達とか、そういうふうに呼べるものって、一度は相手を殺したくなるほどの憎悪を感じて衝突しないと、本物の関係は築けないんじゃないかということを考えるようになったのだ。

「友達」っていう言葉について、人それぞれ、どの程度の付き合いをしたら、そう呼ぶかどうかの定義を持っているとは思うのだけれど、たまにはこういうことを考えてみるのも面白いかも知れない。

これを漫画の世界だけの話だと思って、失笑せず、もうちょっと俺の話に付き合ってくれたまえ。

先に『花の慶次』で書き出したから、史実のことを連想するが、この漫画には伊達政宗も登場するんだけれど、16世紀後半の伊達家は近隣の国々との関係が険悪だった。
外患の中に相馬という大名(現在の福島県に領国があった)もいたんだけれど、何十回も交戦を繰り返してきて、不倶戴天といっていい関係だった。
その相馬家は関ヶ原の合戦の時、直接、東軍に弓を引いたわけではなかったが、西軍についた佐竹の兵が領内を通過することを黙認してしまったので、戦後、徳川家にそれを突っ込まれて、改易されそうになった。
結局、その最悪の沙汰は免れて、幕末・維新まで、相馬家は大名として存続することができたんだけれど、宿敵だった筈の伊達政宗が取り潰しにならないように、幕府に政治工作を働きかけていたらしい。

どうして、単純に「ザマーみろ」って笑って、溜飲を下げるだけにならなかったの?
単純に考えれば、長年、憎悪し続けて、本気で滅ぼそうと思っていた相手じゃないか?
何か計算もあったんだろうけれど、何十年も抗争を続けてきた相手に、ある種の感情を抱くようになったところもあったのだろう。

武田家と上杉家の関係もそうだろう。信玄は亡くなる前、自分の後継者に「危機が訪れたら、上杉を頼れ」って言い残したらしい。

人と人の関係も、国と国の関係も、実は生死の掛かった衝突を経なければ、本当の友情とか、信頼関係って築けないのかも知れないな。
そんなことを考えるようになった。

じゃあ、今の平和な日本に暮らしている現代人はどうなんだろう?
子供がいる家庭の中には、いじめも含めて、子供の友達関係に悩んでいる人が多いだろ。
大体、自分の子供には、どんな友達が必要、こういう子と付き合わせたいっていう考えを持っている親はいるだろうし。

3年前、『女王の教室』っていうテレビドラマが物議を醸しただろ。ここのブログでも、ちょっと感想を書いたが。
志田未来が演じた主人公が、いじめられて、学校に来られなくなる場面があったが、それを乗り越えて、却って前よりも友達との信頼関係が深まった展開になったよな。

「いじめは絶対に悪い。許されない。」っていうのが、社会的コンセンサスになっているわけだが、究極的には必要悪なのかも知れない。
そういう軋轢を乗り越えられないと、本当の友達って作ることができないのかも知れないですよ。

4年ぐらい前、佐世保でネット上のチャットか何かの発言に頭にきて、同級生をカッターで刺し殺しちゃった女児がいたよな。あれだって、被害者の女の子が死ななければ、もしかしたら、加害者と被害者はお互いの理解が深まって、無二の親友になれたかも知れないじゃないか。

今日のトンデモ発言だが、いじめとか、キレる子供が深刻な社会問題として受け止められているわけだが、自分の子供がそうなったら、一生の財産になる友達を得られる機会なのかも知れないぜ。
勿論、死んじゃったり、一生まともな社会生活を送れなくなっちゃうリスクもあるけれど。

だから、曲解しないで欲しいが、「そういう友達は絶対に必要だから、恐れずにリスクを取ろう」だなんて訴える気は無い。
そんな「友達」なんて必要無いから、自分の子供がいじめに関わったり、キレたりするようなことにならないように育てたいっていう考えもありっていうか、当然だと思う。

ただ、今日の俺の記事の意図は、大半の現代人が普段、何気なく漠然と使っている「友達」という言葉について、たまには深く考えるきっかけになればと思って書いてみただけさ。

友達って何でしょうか?
2008/05/25 09:19|教育CM:0
 

これからの日中関係 

この間、『チベット問題、右と左の偽善性の酷似 (05/05) 』という記事で、中国を批判している右側の一部の論者を皮肉るようなことを書いたが、胡錦涛が来た時も呆れることがあった。

日比谷公園とか早稲田大学で、チベット問題に抗議するデモが排除されたことについて、「日本は民主国家じゃないのか?」などと怒っている人がいたが、そういう連中に限って、日教組がプリンスホテルの利用を拒否されたことで、集会を開く自由を制限されたことについては、大抵の論客は容認していたのである。

そっちこそ、一度、迎え入れた国賓の身にもしものことがあったら、戦争になるかも知れないのだから、神経質になるのも仕方がないことだと思う。

朝食会での安倍晋三のKYもビックリしたが、あんな無責任な辞任劇をやってくれた元宰相を異常に擁護する一部のネット右翼の態度にも引いている。
自分と思想が異なる奴が同じ振る舞いをしたら、徹底的に叩くことを書くだろうに。

この間の記事で書いたことだが、こういうブログを読む読者が注意しなければならないことは、個々のブログの書き手が、単なるイデオロギー闘争に明け暮れているのか、それとも、国の将来や国民の生活を真に思っている人物なのか、行間を注意深く読んで判別しなければならないってことだ。
単に自分の嫌いな思想を攻撃するためだけに記事を書いているような奴の話は真に受けない方がいいような気がする。

下記のリンク先のブログは、賛同できない内容もあるんだけれど、多分、「国の将来や国民の生活を真に思っている人物」タイプのブログの書き手だとは思う。

胡錦涛主席の訪日を日中歴史上の大きな転換としたい
外交とは無縁の一般国民であっても、そろそろ気づくべきである。日本と中国がともに力をあわせることが出来れば、それは間違いなくお互いの未来にとってよいことであるということを。

  今回の胡錦涛主席の訪日をめぐる報道の中で、私は特に次の二点に注目した。

  一つは日中共同声明第4項で、「双方は互いに脅威とならないことを確認した」という文言がある事だ。
  今までに出された共同宣言の中でも、あるいはこの言葉は使われていたかもしれない。しかし中国が着実に近代化を進め、世界経済に大きな影響力を持つようになりつつある今日ほど、この声明が重要な意味を持つことはない。

  日本と中国がお互いを軍事的脅威ではなく、平和的友好国であると世界に声明したのだ。

  この声明が偽りでなければ、日本の安全保障政策は対米従属から、自主、自立の平和外交へ発展していかなければならない。

http://www.amakiblog.com/archives/2008/05/post_655.html

しかし、それが正しいとしても、中国に強い反感を抱いている今の若い世代の意識を変えることはできるのだろうか?

『チベット問題、オリンピックの本来の意義を問い直す (05/06) 』の記事で、今の日本は江戸時代の薩摩藩みたいな状況で、そのうち、世界の覇権国家の横暴を倒す維新の雄国になる可能性があるかも知れない、などと書いた。

日本が薩摩なら、中国は長州になるのかも知れない。
今まで、小泉政権の時代の外交のせいで関係が悪化していたし、ネットを徘徊していると、中国を毛嫌いしている人が多いですよね。

昔の薩長も元は犬猿の仲だった。

もし、そういう歴史が繰り返されるとしたら、そのうち、フリーター・ニート世代の中から、坂本竜馬みたいな奴が出てきて、天木がブログで期待を示しているように、日中関係を厚く構築するのかも知れない。

でも、こんなに中国が嫌いな右翼が多いんだから、やっぱり、最後は坂本竜馬みたいに殺されてしまうんだろうな。
2008/05/12 23:00|政治CM:0
 

活殺 

社会環境の厳しさなどから、自殺する人が後を絶ちませんが、最近は硫化水素を用いた自殺が流行しているそうです。
このブログでも過去に何度か、こういう問題を取り上げて、自分の異端な考えを少し書いてきたが、今日もちょっと異端な意見を書いてみようと思う。

どうして勉強しなくちゃいけないの?―学校では絶対教えてくれない
自殺行為も子孫繁栄のために行われる
では、自殺はどうなるのか?
これは最近の生物学会、精神医学界では自分の命を賭けて、助けを求めるシステムの一つと考えられるようになっているのです。それが意味することが分かりますか?
実を言うと、私たちは日常、自殺行為をすることがあまりにたくさんあるのをご存知でしょうか?

(中略)

つまり、人間は窮地に立たされるほどのストレスに遭遇すると、命を賭けてそれを回避しようとするということです。

最近のように、自殺のニュースが頻発すると、決まって、自殺行為を否定・戒める意見が各方面から出てくるだろ。

俺はこのお説を読んだことがきっかけで、そういう観点から考えることに少し興味を引かれて、自分なりに考えるようになったのだが、世の中の殆どの自殺行為を否定・戒めるような意見に対する懐疑の念は増すばかりなのである。

自殺するって衝動は、人に限らず、あらゆる生き物が「進化」する過程で避けられないプログラムのようなものじゃないかとすら考えているな。

つまり、こういう説を完全に信頼するならば、「死を望む」動機での自殺行為はありえないということになる。
「自殺」は自然の摂理のひとつで、個々人それぞれの危機を脱して、新しい命を拾うための真っ当な行為ということになる。

このように、別の発想・仮説で考えると、今の法律や世間一般の人が認識している「自殺」と「他殺」の区別は、その境界は途端にあやふやになってしまうし、無意味にすら感じられてしまう。

《ZARD》の坂井泉水、《X JAPAN》のhide、尾崎豊といった故人となったミュージシャンだが、公式な発表は兎も角、未だに「自殺」だったのか、そうじゃなかったのか、ハッキリしていないだろ?。

今回の記事を書く切欠だが、俺はこういう考えに至ったのだ。
上記のミュージシャンのようなケースに限らず、今の社会の法の定義で、ハッキリと自殺と断定されている死者の「自殺」行為についてだって、それが「自殺」かどうか判別するなんて、実は不毛なことなんじゃないかって気がする。

何か自分の生命を脅かされる危機を感じて、ストレスが高まって、その衝動に至るということだが、ひとつの分かり易い例を挙げる。

『北斗の拳』という漫画で、マミヤの村を襲撃する盗賊が、南斗水鳥拳の使い手のレイの妹のアイリとマミヤを人質に取ったピンチの時、ケンシロウとレイが敵の目を欺くため、ある奥義を用いて、自分たちの身体を仮死状態にする話があっただろ。

近年の生物学会、精神医学界で、「自殺」は、今の自分の命を賭けて、助けを求めるか、危機的状況を打開するシステムというふうに定義されているなら、この話は「自殺」行為って呼んでもいいわけだ。

戦時中の沖縄の「集団自決」は、こういうことが失敗した例だろう。
米兵に囚われたら、酷い拷問を受けることを想定して、それを回避して生き残るために「自殺」という選択になったんだろうけれど、その「自殺」の賭けが失敗したから、死んでしまったってことになる。

今のいじめを苦にした子供の自殺もそうだろうし。

北斗神拳の使い手みたいに、誰もが自分の活殺を自在に操れるわけではない。

もっと長い地球の歴史を振り返ると、無数の種の生き物が自分の子孫を残すため、幾多の危機を乗り越えるために、何度も「自殺」の賭けを繰り返してきたのだろう。

我々人間の遺伝子にだって、そういう衝動に走るプログラムが含まれている。

ちょっと、最初に考えていた主題から逸れてしまったかもだけれど、俺が何を言いたいかっていうと、「今の社会で、『自殺』はしてはいけない。無くさなきゃいけない」というルール・目標を定めるとしても、「そもそも、自殺行為って、生きていきたいという本能があるからやるんだ」っていう生物学のパラドックスを理解していなければ、正しい対策なんかできないってことになる。

今の日本の社会で自殺する人が多いのは、それだけ、自分の命の危機を感じるほどのストレスの負荷を受けている人が多い社会環境の表れなんだろう。
どうして、そういう社会環境になっているかというと、日経新聞とか経済財政諮問会議なんかが「変化に適応できる生物が生き残る」などという進化論の理屈を言って、日本の経済や社会を密林(ジャングル)のような環境に変えることを誘導してきたからだろう。

そもそも、人間が社会や国家を築く動機は、ジャングルでは生きていかれないからだと思う。
ジャングルで生きている生き物は、活殺・自殺行為に長けていないと、種を残していかれない。
そういう環境から個人を保護するために、国家や社会が存在すると思うのだが……。
でも、今の世の中は国に属しているけれど、国民の大半はジャングルで生活するような危機感を強いられている。
ジャングルの環境から国民を守らない国家・社会は国家・社会と呼ぶに値しないような気がする。

だから、「自殺」する人がいなくなるようにする義務が「国家」にはあるとは思うんだけれど。
しかし、人間のそういう衝動は、国家の法や宗教を上回った自然の摂理なんじゃないかって気もする。少なくとも、ジャングルの中で生きている以上、誰かが誰かの自殺を制止することなんて、土台無理というか、その資格は無いというか……。

もうひとつ、今の俺の疑問を書くと、「生きる」ためじゃなくて、本当に生きる意欲、子孫を残す意思が無くなって、「自分の命を絶つこと」を本当に望んで、「自殺」する人は、いるかどうか分からないってことだ。
これから、一生を掛けて、考えていくことのひとつだろうな。
2008/05/11 00:29|ダーウィニズムの考察CM:0
 

チベット問題、オリンピックの本来の意義を問い直す 

それにしても、誰もきな臭いものを感じないのか?

いくら中国がアレでもオリンピック開催を控えた今、わざわざ国際社会の反感を買うような真似をするなんて、おかしいと思わないか?

中国政府は、ダライ=ラマはテロリストで、インドをそれを匿っているなどと批判しているらしいが、同時多発テロの時の米帝にとってのアフガニスタンみたいな感じだ。

米帝といえば、サブプライムの破綻で、国民の放漫な消費を煽ることで成り立ってきた景気対策が失速なのである。
双子の赤字で破綻寸前の経済の建て直しというか、衰運の覇権国家の悪足掻きとして、予想されることは、輸出産業の振興しかないと言われている。
チベット問題が日本のメディアで大きく取り上げられた頃、米帝ドルの相場が急激な暴落に見舞われていたが、米帝の為政者がそういう方針なら、輸出産業(軍需産業)にとっては追い風だろう。
案外、そういう意図によって、糸を引かれて、今度のチベットの騒乱が起こっているのかも分からない。

俺の単純な憶測に過ぎないが、本来、こういう問題の抑止力になり、調停機能を発揮すべきUNは役立たずだろう。
他ならぬ中国が常任理事国だし、ロシアも完全に中国を支持の立場だからな。こんな覇権主義の国が牛耳っているのだ。だから、当の加害者の非を問う採決が成立するわけが無いし。
こんな所に真面目に多額の分担金を納めるなんて、ヤンキーが弱い者イジメをするための木刀を自腹で買いに行かされるパシリみたいなものだぜ。

今日の日本はチベットのような深刻な状況ではないが、米帝には軍事基地とか、いずれは紙屑になる米国債とか、役に立つかどうか分からないミサイル防衛システムなどを押し売られたり、色々と理不尽なことを押し付けられているわけだろ。
世界中の中小の規模の国力の国は、多かれ少なかれ、その庇護と引き換えに、大国の理不尽な要求に従わされ、振り回されているのが現状だろう。

中小の規模の国には、大国の横暴を突っぱねる手段は無いのか?

オリンピックの本来の意義を問い直すべきだろう。

平和の祭典などという別名があるが、その起源になったオリンピュアの祭典って、世界中の民族・宗教・人種を問わず、恒久の平和を祈ったものでもなかった。
普段は都市国家間で利害関係があって対立し、いがみあってはいるが、ある種の同族意識がある古代のギリシア人同士が一定期間の間、矛を収めて一緒に催す祭典だった。
きっと、当時の大国アケメネス朝ペルシアの侵略を撃退するために団結できた要因として、そういう同族意識があったことが大きかったに違いない。

俺が何を言いたいのか、もう分かると思うが、中国にしろ、米帝にしろ、大きな国の庇護に頼ると碌なことが無いだろ。
覇権国家の横暴に抗するには、ペルシアを敗退させた古代のギリシアの都市国家群のように、いずれは世界中の中小の国が団結する以外に道はない。
ロシアの覇権主義に危機感を募らせる北欧や東欧の諸国、米帝のグローバリズムに反抗する中南米とか、中共の脅威に晒されている東亜細亜の諸国……。

日本はこれまで兵器を輸出した履歴は無いのだし、ある意味、それらの国を糾合して、役立たずの国連に代わる新しい調停機構を創設し、指導的立場に立つ資格がある国なんじゃないのかって気もしないでもない。

近い将来、日本は歴史的な黄金時代を迎え、世界に冠たる大国になるなどという話をオカルトな観点から予言している者がいるが、それがホントなら、ペルシア戦争後のアテナイのような繁栄を謳歌できる可能性があるわけだ。

しかし、今の日本は政界を見れば、米帝に国民の資産を端値で売り渡す外資族か、媚中野郎が大半だ。そんな気骨ある政治家は多分、見当たらない。
前にも書いたが、多分、今は江戸時代に喩えれば、理不尽なことを押し付けられても、何とか幕府と対立することは避けようと努める薩摩藩みたいな状況なのだ。
それは今、沖縄の基地問題とか郵政民営化の議論などで、少しずつ国民に察知されつつあるが。

将来、暴虐を極めた覇権国家に引導を渡す世界規模の維新が起こるなら、日本は立ち上がった諸国を率いる雄国になる可能性が一番濃いんだぜ。
2008/05/06 09:20|国際問題、海外のニュースCM:1
 

チベット問題、右と左の偽善性の酷似 

最近、インターネットでチベット問題のことを取り上げているページを読むと、その大半は中国という悪辣な侵略国家が平和に慎ましく暮らしていたチベット人の国を侵略しているように書いている。
やっぱり、主に右の思想で、旧ソ連を筆頭に共産国を敵視している人や組織が。

誤解を招く書き出しになってしまったが、中国が悪いことをやっているのは、100%悪いっていうことは俺も認識しているのだ。

ただ、ここで指摘したいことは、そうした意見は歴史の一面しか捉えていないと感じるし、そういう人の中にはある種の偽善性を感じているのだ。

まず、今の日本の国には、中共が侵略する前のチベットの社会はどんな状況だったか、よく知っている人はあまりいないんだろうか。
一言で説明すると、帝政末期のロシア、日本に併合される前の朝鮮半島と似たような状況だった。
王侯や僧などの特権階級の腐敗・横暴が過ぎて、民衆は家畜のような悲惨な生活を送っていて、国力は末期症状だった。

産経新聞などは、中共がチベット人の人権を犯していることを左翼の論客が見ない振りしていることを批判・皮肉っているが、中共に占領される前から、チベットの民衆には人権なんて無かった。

もしかすると、山奥のチベットの中でも教育を受けられる富裕階級の子弟とかの中には、西洋の啓蒙思想とか、革命思想に触れる機会のあった若者がいたかも知れない。
それで、腐敗した国をどうにか変えなければと当時の彼らなりに真剣に考えて、中には中国の力を頼って、旧来の封建政治を転覆させる工作を図っていた者がいたかも知れない。
ホントにいたとしたら、頼る相手を間違えてしまった悲惨な結果だがな。

日本のネット右翼は日韓併合について、左翼の自虐史観だけじゃなくて、他の歴史観も読めって主張を展開していますよね。
その当時の韓国は滅亡寸前の状況で、併合は韓国の方が望んだことだった。実際、それで韓国人の生活水準は向上した。だから、一方的に侵略者の烙印を押されるのは間違っていることだという主張だ。

自分の愛する国のことについて、そういう主張をするなら、他所の国のことだって、一面だけを捉えた歴史観を見るのは誤っていると感じる。

チベットのご近所にネパールっていう国があるが、7年前に親中派の国王が亡くなって、その王位継承者は前王の外交方針を変えた。米帝やインドとの友好関係を築く姿勢を取ったのだ。
中国はそれに腹を立てて、共産主義ゲリラを支援して、内乱状態になる。
それを日本の極右政党の新風が取り上げて、今はそのページが無くなっているけれど、当然、中国政府の悪行を糾弾していた。
それだけ読むと、確かに中国ばかりが、平和で純朴な国を一方的に混乱させている悪の国家に見える。
ところが、下記の日記の話も読むと、米帝やインドの後援を受けていた現国王もとんでもない暴君だということが察せられるではないか(結局、現在は混乱を治めるため、王権を大幅に制限されるようになったそうだが)。

http://www.enpitu.ne.jp/usr4/bin/day?id=41506&pg=20060501

俺はこれを併せて読んで、その一部が新風に合流しているが、昔の民社党のことを思い出した。チリの9.11クーデターのことな。民主的な選挙で誕生した社会主義の政権を米帝が武力で潰したことを支持した経緯だ。

要するに、右というか、そういう人達は、共産主義国家がムカつくだけで、人権・人道といった類のことなんて屁とも思っていないのだ。

右翼のことを批判することばかり書いてきたが、こういうのって、左側にも多い。

2〜3ヶ月くらい前、沖縄で中学生の少女が米兵に乱暴されかけて、一度は告訴したが、少女の非を問う意見も噴出する経緯があったりして、最後は本人が告訴を取り下げたというニュースがあったよな。
どちらかというと、右に傾斜している2チャンネラーの多くは、左翼団体の無神経さを罵倒していた。そのニュースについては、俺の概ね2チャンネラーの多数派に同意している。

要するに、左翼は米帝や資本主義がムカつくだけで、人権・人道といった類のことなんて屁とも思っていないのだ。

似ているっていうより、同質だろ?

特定の思想の持ち主、特定の政党などに所属する者の全てがそうだとは言ってはいけないが、要するに、憎しみの対象がイデオロギーや国家といった概念で、この世の理不尽なこと、暴力それ自体に向いているわけではない思考の持ち主が多いんだよ。

今のチベット問題について、中国の悪行を批判する意見がネットに溢れているわけだが、一見、ごく当たり前の同じような正論の多くを頭の中で反芻(はんすう)してると、以前からモヤモヤと感じていたが、言葉で表現できなかったことがようやくハッキリしたぜ。

今日の話を結ぶが、左右問わず、憎しみの対象が暴力それ自体に向いているわけではない思考の意見を読んで、自分も義憤を煽られることほど、馬鹿らしいことは無いって気がしてくるだろう。
だから、個人のブログでも、どこかの組織の見解でも、行間を気をつけて読むべきなんだろうな。その書き手の意図が暴力それ自体に対する義憤なのかどうか、良く見極めて、信用できる論客なのかどうか、判断力が読み手に必要だな。

そういう資質を持った人が少なければ少ないほど、社会・国家は間違った方向に暴走し易いのかも知れないな。
2008/05/05 07:54|国際問題、海外のニュースCM:0
 

チベット問題、中共の宗教弾圧 

さて、このブログでも何度かに分けて、最近のチベット問題を取り上げてみることにするか。

勿論、ブログの世界でも変わり者の俺がわざわざ取り上げるのは、どこでも展開されているような中共バッシングばかりをやるためではない。それらとは、ちょっと違ったことを書きたいから取り上げるのだ。
中国が酷いことをやっているのは、誰でも分かることで、そんなのは小学生が作文に書ける程度のことだ。

ご存知の通り、中国は共産党一党独裁で、共産主義思想は宗教の廃止を目指している思想だから、当然、支配下に置いたチベットの仏教は弾圧の対象になっている。寺院は焼き払われ、仏像は破壊され、僧は虐殺されるなどといった悪逆の限りが尽くされてきたのだ。

あのマルクス主義者の漫画家の中国礼賛は異様だったな。
「神なんかいない」ってことを発見した思想は素晴らしいし、それを国教に選択した中国やロシアは凄い国だ。そのうち、世界に冠たる大国になるのは間違いない。異様な礼賛振りだったな。
言わば、「神がいない」っていう信仰だな。
礼賛する者は異様に帰依するが、逆に目の敵にする者は激しい敵意を抱くのだ。

俺はどうして、この世界の歴史にそういう思想が誕生して、それがこんなに拡大したのかについて、少し考えてみたんだけれど。

それは我々のごく身近な不幸な出来事、理不尽なことに端を発するんじゃないかって気がしている。

例えば、山口母子殺害事件などの少年犯罪だ。
国家の少年法で守られているから、加害者に十分な裁き・罰を与えられないことに憤りを抱いている奴が多いことは、ネットを徘徊して、あちこちの意見を読み歩いていれば、よく分かるだろ。

あるブログだが、別の少年犯罪について、加害者の元少年たちが現在、平穏な暮らしを送ることが許されている現実について、「この世には神なんかいないんだ」という認識を示しているのを読んだ。

俺は今回の記事の内容を考えながら、この文句を思い出して、はたと思ったことがある。
この世界にはそういう理不尽なことが幾らでも転がっていて、どうにもならず、自分の内に抑圧するしかない怒りを抱いている人間は幾らでもいる。
もしかすると、「神がいない」とか言っている共産主義っていう妖怪は、そういう人々が抑圧した義憤の意識から生まれたモノかも知れないな。
2008/05/04 23:00|国際問題、海外のニュースCM:0
 

右翼や新保守主義者どもの思想とは異なる私の改憲思想 

久しぶりのマトモな更新だ。

チベット問題のことを書きたいが、今日は憲法記念日だから、憲法をテーマにしよう。
でも、今まで折に触れて、書いてきたことのまとめに過ぎないが。

前に書いたことだけれど、俺は今の日本国憲法は酷い内容が含まれていると思っているので、いずれはどこの国の干渉も受けず、自主憲法を制定し直さなきゃいけないと考えている。

何が酷いかって言うと、国民の三大義務のひとつの「納税」だな。

元々、憲法っていうものは、英国のマグナ=カルタがそうだが、君主・国家が国民の財産権を侵害することを阻止する意図で考案された代物だ。
だから、国民は「納税」の義務を背負うだなんて、欧米の立憲国家ではありえない条文なのだ。
そういう立憲政治の先進国の米英が、だよ。敗戦国の新憲法にそういう条文を折り込んだ、或いは折り込まれることを黙認したことについて、誰も酷い悪意や侮蔑を感じないんだろうか?

日本人を家畜としか思っていないってことだろう。つまり、米帝の軍事費や赤字財政の補填をさせるためだけに利用されるのだ。
こんな条文があるから、オイルショックの時の暫定的な措置だった筈の税制が何十年も存続して、利権政治の食い物にされている状況が許されてしまうのではないのか?

「国民は納税の義務を負う」だなんて、気持ちの悪い条文は早く削除するべきだよな。

でも、これも既に書いたことだが、全面的な自主憲法制定は、ずっと先にやるべきことだ。

将来、米帝の国力が弱くなっていく時代の趨勢で、世界規模の大きな戦争が起こって、敗戦になった時、イラク攻撃のこととかで、色々と戦争犯罪を問われることになる。
今の日本が自主憲法なんて制定したら、小泉政権のやった外交が自主的に侵略戦争に加担したように見られたりで、米帝に連座させられるハメになるからな。
今の憲法を保持しているなら、米帝の悪意に満ちた憲法で独立を奪われていたんだから、仕方が無い、って大目に見てもらえるからな。

中曽根元宰相とか、前宰相の安倍晋三とか、民主党の前原とか、早く変えたくて仕方が無いようだが、売国奴じゃないことを信じるなら、そういう右翼や新保守主義者たちはバカなんじゃないかな?

俺の改憲思想は、そういう右寄りの連中とは性質を異にする。
左翼の非戦思想とも違う。

実現性は兎も角、俺が日本をどんな国にしたいと思っているかということを書くと。

政府の規模は中程度。
福祉・社会保障は、特定のライフコースから外れた人を守れないような家族主義レジームは是正して、個人単位で考えるようにする。
大国に舐められない程度の武装――必要があれば、核武装も厭わない。

フランスや北欧諸国のような国家に近いイメージかも知れない。
2008/05/03 23:00|政治CM:0
 
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